今日という日には昨日という元があり同じように、今の自分には親という元が有る、最近の風潮はともすると親との繋がりを全く感じさせない、むしろそうした繋がりが少子高齢の現代、子供の負担となり足かせになるということから祭祀儀礼を簡素にということになって墓じまい、直葬、零葬という事に成って来たのだが、死んでからの親子の繋がりは完全に希薄になってしまい、そこに親に感謝と言う気持を引き出す術は無くなってしまい、感謝を識る身近な機会と材料がなくなってしまう事になるのである。
親が有りこの世に生まれて来てもその人の死が灰に成るだけでは不用になったものを焼却することと何ら変わりはないのではないか。
親の価値が見出だせる道理はない。
可愛い子供に負担をかけない、ただ、それだけでは、失うものが大きすぎる、戦後七十年、今になって教育の誤りが日本の将来を大きく揺るがし始めたのだ。有り難い事だが経済大国になったがため苦労と言う戒めを教えられる機会がないままに日本人が出来てしまったのだ。
過去を含めた自分を大事にする。親と言う手助けがあり、その上に祖父母という手助けが得られる、先祖の加護を得られる様に信じて先祖に接する事が今日の日本を支えてきたのである。その根元を灰にしてしまおうと言う事なのだ。
親の事を子に背負わせないでよいと言うが、現実に、離婚を繰り返す、結婚ができない、転職を繰り返す、家庭に鬱を抱える、という事実が、先祖の祀りが複雑多岐にわたる家に存在することをどう説明すればよいのだろうか。過去と現在、先祖と自分たちが連係しているという事ではないか。
従って、先祖にまとまりがなければ子孫もまとまらない道理である。
親が子供を背負う事が、子供を助ける事に成り、ひいては子孫の幸せを招く事になるのであって、そのために親は子の幸せのために親の死を大事にする事を教えなければならないのだ。
子供に負担をかけさせたくないと言う親心は子供に不幸を呼びこむ事に繋がることと銘記しなければならないのだ。