永代供養 上総浄苑へ 足立宗禅の人生相談

因縁と陰徳(つづく時代の中で)

末法地獄の時代を迎えて
子殺し、親殺し、無差別殺人と、全く原因不明の殺戮が連日発生すると云う、手のほどこし様のない現代になってしまいました。生命の尊さなどと云う倫理は、かけらもなく、この世に生きている己れの存在すらにも気付かないと云うべきでしょうか。滅茶苦茶な今日この頃です。 人間の悩み、苦しみの度合いも進んで、今や自分の周囲の総てが不安で埋まっていると云う、恐ろしい時代が到来しました。

盛衰は一代おいてやって来る
おじいさんやおばあさんの代にあったことや、その生きざまがよく似ていることがあります。例えば、幼い子供を置いて両親が早死してしまった家系などでは、子供にかける愛情や、一家の団らんに対する想い入れが特に強いもので、こうしたことが逆に苦しみや悩みの因縁となって思わぬ事件に見舞われたりします。 それはそうした想いが遺伝子によって親から子に伝わっていくからで、これが一世代おいた隔世遺伝となるバイオリズムを持っています。
金銭面でもそうです。没落したり一家離散したりすると、一代で財を成す様な人がでるものです。ハタ眼には、貧困をバネにしてと見えますが孫の代で衰微することが多いものです。
神さまは公平です。傑出した時代があれば必ず衰退する時代が来るのです。“金は天下の廻りもの”と云いますが、人のため、世のためにならないで自分たちだけのものにすると身に余るものとして、いつか世間に返させられるのです。そうならないためには絶えず陰徳を心掛けることです。そしてこの陰徳に費やすもの、これが因縁の手切れ金となるのです。

何故、死者のまつりなのか(死んでも死にきれない想い)
“死んでも死にきれない”と云いますが、苦しみのまま、心配をかかえたまま、死を迎えたなら、どうでしょうか。肉体は灰となって消滅しても、苦しみ、悩みが深いほどその想いが残ってしまうのです。生前の苦しみが残ると云うことは成仏していないと云うことになります。だから、釈迦は迷わぬ様に、悟りを説いているのです。でも、例えば可愛い子や孫に不安があるとしたらどうでしょうか。子や孫の苦しみに取って替ってやりたい。世の親は皆そうでしょう。何の苦しみも心配もなく、順風満帆で死んで行くなら、その死者の供養はしなくてもと思うことがあります。

人は一人では生きられない
私達は社会と云う組織の中で、お互いが触れ合いながら生きているのです。そこには、良い関係もあれば、悪い関係もあり、ふとしたことから悪い関係となり、憎しみを持つようになったりします。そして、不幸になったりすると、相手を怨んだり、幸せに見える人を羨んだり、自分一人だけが世の中の不幸を全部背負わされた様な悲しみに陥り、悲観の余り自殺でもすると、肉体を失った悲しみの念(想い)が、他人の肉体を借りて、その想いを遂げ様とします。これが霊障と云われるものなのです。ですから自殺は正直に真面目に生きているのに何故と云うことになるのです。

因縁の消滅には陰徳を積むこと
この様に、自分の知らないところで、思わぬ他人の念を受けていることがあるのです。そしてこれらを自分の因縁とか、先祖の因縁と云っているのです。子殺し、親殺し、無差別殺人がそうです。正常な人間が何でその様なことをするものですか。明白なことです。子や孫を苦しめる親等あろう筈はないのです。こうして見ると、先祖の因縁、我が家の因縁と云っても、その因を辿って行くと、社会で生きていると云う中で知らず知らずの内に、因縁と云う病気に犯されていると云うことです。霊障と云う病気の原因はこうした死んでも死にきれない思い(念)なのです。その辛い、悲しい苦しみを除いてやること、そのための死者のまつりなのです。それを生きている子孫が変って罪滅ぼしをする、その最良の方法が罪滅ぼしのための陰徳積みなのです。陰徳を積むことによって、得られた功徳を成仏の援けになるように送り届けること、これが追善供養と云われるものなのです。
云うなれば死者の苦しみをやわらげ、慰める薬が死者にかわって陰徳を積むことによって与えられるのです。